2022年8月3日水曜日

【コラム⑧】(謎)なぜ,川上踊りでは藺草製の桴をつかうのか。

 









前回 川上タイムズの続き

 川上踊りの太鼓の桴(ばち・べえ)は,写真のように”藺草(いぐさ)”製です。

  これは,いちき串木野市の他の太鼓踊りには見られない特徴です。(市来七夕踊りの太鼓踊りと、羽島南方神社の太鼓踊りのバチは、すりこぎ型の太い木製のバチです。)

 太鼓踊りの桴に注目すると次のようなことがわかってきました。

 薩摩半島に伝わる太鼓踊りの桴はおおまかに三種あるようです

 ①木製

 ②藁製(切り縄)

 ③藺草製

 

 藺草でできた桴をつかった太鼓踊りは,実は川上以外にもあるんですね。

 では,そもそも,なぜ,藺草でできた桴をつかうのでしょうか。

 それは,三種の桴で叩く太鼓の音の強さと関係があるようです。


 藺草でできた桴をつかうと,太鼓より鉦(かね)の音がつよくなるという特徴があります。

 さきのWebサイトのまとめによると。

鉦の響きが強い踊りは念仏踊りの要素が、太鼓の響きが強い踊りは虫送り(虫追い)の要素が、それぞれ強いと考えられる。』

 ・・・とあります。

 太鼓踊りのルーツは,『踊り念仏』にあるという説があります。私の踊りに関する歴史的経緯の解釈は次のとおりです。

 ① (仏教儀礼としての)”踊り念仏”が時宗の開祖「一遍上人」によって生まれる

 ②→(踊り念仏が芸能化された)”念仏踊り”・・・※踊り念仏に”田楽”が習合して派生

 ③→(芸能化される過程でより太鼓が強調される)”太鼓踊り”

 ④→”盆踊り”

 (②③さらに宗教的な目的からはなれて芸能娯楽化する風流[ふりゅう]化された踊りも多く見られます。市来の七夕踊りのツクリモンや指宿の中川ごちょう踊りの鬼神面などがそうでしょうか)


 鹿児島県内の太鼓踊りの由来は,念仏踊り,虫追い,雨乞い,島津義弘の朝鮮出兵にちなむ,など諸説あります。川上踊の由来は,どこにあるのでしょう。

 県教委の調査書や市Webサイトなどの公式の情報でも,170年前~400年前創始と書かれていて,定かではないようです。

 実際の踊りや諏訪神社奉納をみますと,長い年月での伝承の間に,川上踊はかなり変容しているような気もします。

下の記事が川上踊に合っているように思えます。


以下,サイト(鹿児島の祭りと伝統行事「南さつま半島文化」)より引用です。

 「太鼓踊りの起源と変容について、先学の研究を整理しておこう。下野敏見は、太鼓踊りの二重円陣隊形について、中の輪の鉦の音は念仏踊りに、外の輪の太鼓の楽は田楽にちなみ、太鼓踊りはこの二つの流れが一緒になつたものという。そして、「太鼓踊りの中の輪の人たちは、清らかな少年・少女が氏神の神霊をわが身に招くシャマニスティックな姿を表現していると見ることができる。これに対して外の輪の人たちは、その神霊を慰めかつ感謝しながら盛んに跳躍し、足耕していると見ることができる」と指摘している」

「小野重朗は、太鼓踊りについて、古くは家々の盆の精霊祭りで、その力で稲の害虫を防除する意味があったという。その後川内川流域から集落の開拓先祖やその他の偉大な祖霊(精霊というより御霊的な偉霊)を祭る太鼓踊りが踊られるようになり、そこにも虫送り的要素が伴ったとする。そしてさらに、御霊的な神から厳しい武神の諏訪神へ対象が変わり、諏訪神社(南方神社)へ太鼓踊りが奉納されるようになつたと述べる

---引用 以上


下段の記事にかかれている内容は,そのまま,川上踊のことを書かれていると言われても,何の違和感もありません。

それにしても,いちき串木野市に伝わる太鼓踊りの中で,川上踊だけが木製をつかわず藺草のバチをつかう風習はどこから伝承されたのか,依然として謎が残ります。


(続く)


 

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